THE FENCER

フェンサー THE FENCER
フェンサー THE FENCER

映画「フェンサー」 監督:クラウス・ハロ

 

京都文化博物館で開催しているイベント、ヒストリカ。

11月1日に上映された映画「フェンサー」を観に行ってきた。


日本では初公開とのこと。

舞台は1950年頃のエストニア。といっても全然ピンとこない。

ヨーロッパの有名な国の名前は知っていても場所がいまいち把握出来ていない。

劇中ではエストニアとレニングラードという名前が出てくるが、

一体どの辺のことを言っているのかよくわからなかった。

話の内容から察するに、ロシア、劇中の時代ではソ連に程近いところなのだろうことは想像できた。


ヨーロッパの国の位置はイギリス、フランス、ドイツ辺りはわかる。つもりだ。

エストニアとはドイツから東、ロシア方向の位置にある。

ドイツから東、北東の方へ行くと、ポーランド、リトアニア、ラトビア、そしてエストニアの順に並んでいる。

エストニアの東側にレニングラードがあるのだが、現在の地図ではその名前では記載されておらず、

サンクトペテルブルクと表記されている。



秘密警察から逃れて田舎町へきた主人公エンデル・ネリスが学校の教師となる。

子どもたちにフェンシングを教えることになるのだが、初めはその気はなく、スキーをする予定だった。

しかし、前日に用意していたスキー板を含め、体育館の倉庫にあった用具が全て軍に寄付されてしまう。

この辺から、校長があまり良い人とはみれなくなった。


道具が何もない中、体育館で自分で持ってきていたフルーレでフェンシングの練習をしていると、

学校の女の子、マルタに何をやっているのと尋ねられる。そして教えてとも。

このときにマルタにバッヂを渡しているのだが、これはフェンシングの大会か何かのものだろうと思う。

そして後日、フェンシングクラブの張り紙をするとたくさんの子供達が集まった。

道具は近くの野原で拾ってきた木の枝でつくった。


フェンシングの練習では、エンデルは初日から厳しく指導していく。

フェンシングは距離感が大切だと。


子供達は熱心に練習に励んだが、校長はあまりいい顔をしなかった。

田舎町の人々は労働者階級であり、フェンシングは上層階級の者がするスポーツだとして校長継続を反対したが、

保護者を交えた説明会では皆、フェンシングの継続を希望し挙手をした。


この頃のエストニアはソ連の占領下、つまりはスターリンの占領下であった。

フェンシング継続を希望するというのは、今の国の体制に不満があるという意思の現れだと、

映画後の解説で語られていたが、この時代にその行動がどれだけ勇気のいることだったのか。

保護者達が恐る恐る継続希望のため挙手をしていくシーンが、今になって理解できた。

手を挙げるまでにためらいがあったのは、自己主張を避けているわけではなかった。

目の前にいたフェンシングを否定する校長を恐れてでもなかった。

皆が恐れていたのはその先に見えるスターリンだったのだと。


冒頭にでてくるスターリンの肖像がここで思い出されることになる。


劇中では、独裁的なものや戦争中の軍の戦いのような直接的な描写はない。

唯一悪役的に出てくるのは秘密警察だけだ。

主人公を初め、市民たちも恐れている。


学校の校長も一見悪役に見えるのだが、一概にそうとも言い切れない。

国の方針にしたがって、彼の正しいと思うことをやった。

正義感、責任感の強い人だったのだと思う。



途中、エンデルは子どもが苦手だと同僚の女性教師、後の彼女に洩らす。


厳しい指導の中、練習途中で逃げ出した少年ヤーンからは僕達のことがキライなんだろうと言われ、

彼は絶句し、すぐに反論できない。子どもの純粋な洞察力に大人は嘘はつけない。

少し間を置いてから、彼はヤーンに言う。

君を剣士にすると。


エンデルはフェンシングで一番大切なものは距離感だと教える。

そして自身は、苦手だという子供達との距離感を掴んでいく。



クライマックスでは、レニングラードでフェンシングの大会が開かれる。

エンデルは確か、学校にはレニングラードからエストニアに来たことにしていたと思う。ちょっと記憶が曖昧。

友人からは危険だからレニングラードには行くなと釘も刺される。


子供達は大会に出場したがるが、エンデルはまだ早いと出場を渋る。

マルタは挑戦したいと告げるが、エンデルは意見を変えない。

そしてマルタはエンデルからもらったバッヂを不機嫌に返す。

怒っていたのか、失望したのか。もらった時はとても嬉しそうだったのに。


それが契機になったのか、思い直して大会に出ることにするのだが、

これが簡単な選択ではないことは明らかだ。

子供達の希望と引き換えにする代償は、エンデル自身の身柄。命の保証もない。

彼女には当然行かないでと言われる。子供達が、エンデルを父親だと思っているのだからと。


前述した保護者会では、子供達の両親は出てこず、祖父母たちが出てくる。

母親は仕事に、父親は恐らく兵士やそれに準ずるものとして出ているのだと思う。

そんな子供達には、エンデルは父親として見ていると彼女は言い、エンデル自身も実感していた。

そして、だからこ大会に出場するのだと彼は言う。

ドイツ軍から、秘密警察から、逃げてばかりの人生を終るためにも。


父親として、逃げ続けるわけには行かなかったのかもしれない。

そんな姿を子供達に見せたくなかったのかもしれない。

エンデルは多くを語らないので、ここは人によって感じ方がいくつかあるところだと思う。

練習を重ねた子供達の晴れ舞台としてその成果を見届けてあげたかったのかもしれないし、

子供達にも披露する場を設けてあげたかったのかもしれない。



大会では、子供達を応援したり励ましたりする中で、エンデルはとても生き生きとしていた。

大人に対する子供達の力はとても大きく、町中では曇天の続く薄暗いシーンが続いていたような気がするが、

子供達がいるシーンではキラキラ光っているような、希望に満ちているような、そんな印象を受けた。


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